明治36年(1903)〔0歳〕
7月17日、新潟県南魚沼郡三和村大月(現・南魚沼市大月)に、高野団之助、サキの一人娘として生まれる。本名は千年(ちとせ)。
高野家は旧家であり、父団之助は隆雅と言う雅号をもつ芸術家で、千年が生まれたとき村長を務めていた。母サキは、隣町で書店を営む裕福な家庭の生まれだった。サキは団之助の三番目の妻で、生家には病死した一番目の妻の二人の息子がおり、近所の別宅には二番目の妻とその子が暮らすという複雑な家庭環境だった。
明治43年(1910)〔7歳〕
4月、大月小学校に入学。
異母兄たちとは年齢が離れ、孤独だった少女の心を慰め励ましてくれたのは、本や雑誌であり物語であった。母の実家が書店だったことも幸運し、千年は父の買い与える絵本や月刊雑誌などを片端から読んで育つ。しかし、学校では、裕福な家の子に対するねたみなどから、いじめられつづけた六年間だったという。
(写真:前列左端が千年)
大正5年(1916)〔13歳〕
4月、六日町高等科に入学。
この頃、『少女画報』に連載されていた吉屋信子の「花物語」に出会い、耽読。大人になったら、小説家になろうという夢を抱くようになる。
大正六年(1917)〔14歳〕
4月、生家から50キロほど離れた長岡高等女学校に入学する。
卒業までの4年間を寄宿舎で送る。文学少女で、雑誌やローカル新聞などに投稿し、たびたび採用される。
大正10年(1921)〔18歳〕
4月、上京し、日本女子大学師範家政科に入学。
父団之助(隆雅)が芸術活動の拠点に借りていた芝の寓居に住まう。
6月、母サキを生家から引き取り、大学近くの雑司が谷に家を借りて二人で暮らし始める。
1年生、2年生と創作に励み、大学の機関紙『家庭週報』に「ある幸福」「桜をよそに」「友との再会」など数編の短編小説が掲載される。
大正12年(1923)〔20歳〕
5月、雑誌『面白倶楽部』の懸賞で、歴史ものの短編小説「形見の絵姿」(ペンネーム・高瀬千鳥)が当選、全編が掲載される。
9月1日、関東大震災。家の鴨居が落ちるなどの大きな被害を受け、九死に一生を得る。