昭和10年(1935)〔30歳〕
5月、『少年倶楽部』(五月号・講談社)に、少年小説「山の勇者」が掲載。
小説家として、新たな人生を歩みはじめる。
6月、雑誌『婦人子供報知』(報知新聞社)に、「姿なき母」が掲載される。
7月、『婦人子供報知』に、「母の紅提灯」が掲載。
『少年倶楽部』(七月号)に「故郷の歌」掲載。
9月、同誌九月号に「美しき勝利」掲載。
『婦人子供報知』に「落葉は哀し」掲載。
11月、『少年倶楽部』(十一月号)に「高原の秋」掲載。
昭和11年(1936)〔33歳〕
1月、『少女倶楽部』新年号(講談社)から、写真物語「愛の翼」の連載がスタート(全6回)。
5月、 少女小説「村の友愛曲」が、『少女倶楽部』(五月号)に掲載される。
7月、『春日局』が、同誌七月号の付録本となる。
*この小説は、昭和63年、「春日局」がNHK大河ドラマに決定したときに『別冊歴史読本』で復刻された。
10月、『少女倶楽部』十一月号付録本にあやめ訳の『小公女』が決まり、蕗谷虹児が挿絵を担当。あやめと虹児の対談が、講談社貴賓室で行われる。
少女小説「母の面影」が、『少女倶楽部』(十月号)に掲載。
同号には、吉屋信子も「毬子」を連載しており、あやめは少女小説作家として、少女時代の憧れの存在、吉屋信子と同じ舞台に立つ。
11月、付録本『小公女』が発行。
同月22日、児童文学者S氏(23歳)と結婚。
*この頃、大森区久が原六丁目八六三番地に居を構えていた。
昭和12年(1937)〔34歳〕
1月、『少女倶楽部』で「物知り小枝ちゃん」の連載(全12回)がスタート。
2月、『白衣の天使ナイチンゲール』(『少女倶楽部』二月号付録本)発行。
3月、「牧場は微笑む」(同誌三月号)掲載。
4月、同誌四月号に、「盛綱陣屋」、「寺子屋」の2作品が掲載される。
5月、『大坂城の花 木村重成』(同誌五月号付録本)発行。
9月、「久遠の友情」(同誌九月号)掲載。
11月、「暁の陸戦隊」(同誌十一月号)掲載。
12月、「赤ちゃん」(同誌十二月号)掲載。
*この年、『少女倶楽部』だけで、1年間に20回も作品(連載を含む)が掲載されるという売れ子作家ぶりだった。
昭和13年(1938)〔35歳〕
1月、『少女倶楽部』(新年特大号)に、「テンプルの天使」掲載される。
*この年から、『講談社の絵本』からの原稿依頼がくるようになる。あやめの記録によると、以後数年間で20冊あまりに作品を書いたと言う。
3月、『講談社の絵本』(三月号・講談社)に、「仲なほり」掲載される。
5月、『少女倶楽部』(五月号)に、名婦物語の第一弾「吉田松陰の母」が掲載される。
以後、昭和16年までに、「奥村五百子」「乃木静子」「勤王の母 松尾多勢子」「井上でん女」「戦場に摘む嫁菜」「ナポレオンの妻」が採用される。
6月、「ナンデモ一バン」(同誌六月号)が掲載。
7月、「土かつぎをした秀吉」(同誌七月号)掲載。
8月、「仲よし信号旗」(『少女倶楽部』八月特大号)掲載。
9月、「ヒダノエトクダラノ河成」(『講談社の絵本』九月号)掲載。
10月、名婦物語「ナポレオンの妻」(『少女倶楽部』十月号)掲載。
「オセンタク」「狼トタタカフ」(『講談社の絵本』十月号)掲載。
昭和14年(1939)〔36歳〕
1月、名婦物語「奥村五百子」(『少女倶楽部』新年特大号)掲載。
3月、「オサルトアンパン」が『講談社の絵本』(三月号)に掲載。
「吹雪に薫る花」が『少女倶楽部』(三月号)掲載。
4月20日、「少年文学作家画家協会」(会長加藤武雄、幹事長池田宣政)が発足。あやめも劇映画部委員として参加する。
5月、「乗合馬車」と「スカートの信号」が『少女倶楽部』(五月号)に掲載。
6月、「春のゆくへ」「まことの友達」が『少女倶楽部』(六月号)に掲載。
7月30日、初めての単行本『小公女』(バーネット作)が、講談社より刊行される。
9月、名婦物語「乃木静子」(『少女倶楽部』九月号)掲載。(
10月、「青空澄みぬ」(『少女倶楽部』十月秋の増刊号)掲載。(
昭和15年(1940)〔37歳〕
1月、名婦物語「乃木静子」(『少女倶楽部』新春増刊月号)掲載。(
3月16日、S氏と協議離婚する。3年半という短い結婚生活だった。
8月、少女小説「友情の小道」が『少女倶楽部』(八月号)掲載。
12月22日、はじめての少女小説の創作集『友情の小径』(文昭社)が刊行される。
昭和16年(1941)〔38歳〕
4月、「母」(『少女倶楽部』四月号)が掲載。
6月、『櫻咲く日』(壮年社)が刊行される。
7月、名婦物語「井上でん女」(『少女倶楽部』新春七月号)掲載。(
7月、名婦物語「戦場に摘む嫁菜」(『少女倶楽部』新春十月号)掲載。(
10月、『講談社の絵本』の「オバサマノオミミ」(十二月号)掲載。
12月8日、真珠湾攻撃。太平洋戦争に突入する。
昭和17年(1942)〔39歳〕
2月、「櫻花の心」が、『少女倶楽部』(二月号)掲載。
6月、「日の丸かざして」が同誌(六月号)掲載。
9月、「御民なれば」が同誌(九月号)掲載。
この頃、同誌に、日暮豊年海軍少将インタビュー記事や、保健婦養成所、食糧学校、防毒面製作工場で働く女性たちを取材した記事(いずれも掲載号不明)が掲載される。
昭和18年(1943)〔40歳〕
『美しい道』(壮年社・刊行月不詳)が刊行される。
昭和19年(1944)〔41歳〕
11月24日、東京大空襲始まる。
3月、5月、6月の大空襲で、あやめの家の周囲も一面延焼。故郷六日町への疎開を決意する。
5月9日、甥高野隆太郎、姪太田千枝が、あやめと母サキを迎えに上京。病床のサキを背負い、疎開する。
同月10日、六日町に疎開したあやめ母娘は、大月にある生家の高野家に身を寄せる。が、しばらくして、母サキの生家である和泉屋書店が所有する六日町伊勢町の家に移り住む。
昭和20年(1945)〔42歳〕
8月15日、終戦。和泉屋書店の茶の間で、玉音放送を聴く。
「これで電燈もつくし、明るくなるし、平和になる」と呟く。
昭和21年(1946)〔43歳〕
六日町のローカル紙『魚沼新報』が復刊。あやめは「少しでも紙面が賑やかになるように」と、自ら寄稿を買って出る。脚本家時代の思い出や児童読み物、女性の自立に関するエッセイなど、数多く寄稿している。
戦後の出版ブーム到来。
あやめのもとに東京の出版社から原稿依頼が殺到する。
10月13日、同紙に「思い出の短歌」を掲載する。
昭和22年(1947)〔44歳〕
1月1日、『魚沼新報』新春号から、「映画スターの思い出」(全5回)の連載を始める。
5月22日、同紙に「新憲法と私たち」を掲載。以後、新しい時代における女性の生き方について、たびたび寄稿する。
7月、『友情の小径』(偕成社)が刊行される。
7月、『キュリー夫人』(講談社)が刊行される。
『雪の女王』(アンデルセン原作・妙義出版社)刊行。
9月、『アルプスの山の少女』(スピリ原作・文化書院)刊行。
11月2日、同紙に「このごろの国際情勢」を掲載。
昭和23年(1948)〔45歳〕
1月1日、『魚沼新報』新春号に、「女性よ太陽たれ」を掲載。
5月、『白菊散りぬ』(偕成社)刊行。
『愛の翼』(妙義出版社)刊行。
6月6日、この日発行の『魚沼新報』から、「映画の話」(全11回)の連載開始。
9月、『久遠の夢』(偕成社)刊行。
11月、『秋風の曲』(妙義出版社)刊行。
この頃、六日町から自治警察の公安委員を、家庭裁判所から離婚調停員を委嘱される。
昭和24年(1949)〔46歳〕
1月1日、『魚沼新報』新春号に、「子どもの読物」と出した随筆を掲載する。
*戦後出版ブームが頂点に。
あやめのもとに原稿依頼の大波が襲う。あまりの多さに断るのが大変だったと述懐している。
3月、『母への花束』(偕成社)刊行。
『乙女椿』(ポプラ社)刊行。
4月、『家なき少女』(マロー原作・偕成社)刊行。
7月、『あこがれの星』(妙義出版社)刊行。
10月、『小さき明星』(スピリ原作・三和社)刊行。
11月、『古城の夢』(ポプラ社)刊行。
このほか、刊行月は未確認だが『嘆きの花嫁人形』(妙義出版社)、『愛の花々』(雲雀社)が刊行されている。
昭和25年(1950)〔47歳〕
10月、『アルプスの少女』(スピリ原作・講談社)刊行。
昭和26年(1951)〔48歳〕
10月、『形見の舞扇』(ポプラ社)刊行。
昭和27年(1952)〔49歳〕
3月、『忘れじの丘』(ポプラ社)刊行。
4月、『家なき娘』(マロー原作・講談社)刊行。
7月、『小公女』(バーネット原作・講談社)刊行。
9月、雑誌『少女サロン』(偕成社)に、「山のあなたに」を掲載。
昭和28年(1953)〔50歳〕
1月、『少女サロン』新春特大号から、「花散る窓」の連載開始。
10月、『涙の円舞曲』(ポプラ社)刊行。
12月、『野菊の唄』(ポプラ社)刊行。
昭和29年(1954)〔51歳〕
2月、『嘆きの子鳩』(偕成社)刊行。
4月、『あこがれの星』(ポプラ社)刊行。
9月、『花の友情』(ポプラ社)刊行。
このほか、刊行月は未確認だが『乙女の小径』(偕成社)が刊行されている。
昭和30年(1955)〔52歳〕
5月、『秋草の道』(ポプラ社)刊行。
6月、『アルプスの少女』(偕成社)刊行。
同月、寝たきりの母の体力の衰えを案じ、湘南の片瀬海岸へ移り住む。
昭和33年(1958)〔55歳〕
8月11日から15日まで、あやめ訳『家なき娘』(マロー原作)がNHKラジオ第一放送の午後の番組「お茶のひととき」(月曜~金曜)で5回にわたって放送される。
8月29日、三十年間介護してきた母サキが死去。享年81歳。
長年の疲れが出たあやめは体調を崩し、ペンを置く。
以後数年間は休養に専念する。